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南アフリカ最大のタウンシップ【SOWETO】を解説!!

政治
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タウンシップとは?

「タウンシップ」とはアパルトヘイト時代の黒人専用居住区のことを指します。

アパルトヘイト時代は、黒人は最も冷遇されていたため、タウンシップは都心から離れた郊外に作られ、鉱山や発電所などの施設の近くに位置していることが多いです。しかし、郊外にありながら、ハウスキーパーとして白人など他の人種の生活圏に通う人も多いので、数時間かけて通勤できる距離にあるのも特徴です。

アパルトヘイトとは?

アパルトヘイトとは、翻訳すると「人種隔離政策」と言い、人種によって人々を分離する政策で、白人、黒人、インド人、カラード(混血の人)のそれぞれ人種によって職業や教育、居住地や権利などが分けられていました。1948年から始まり、1994年に全人種による初の総選挙が行われ、ネルソン・マンデラが、黒人で初めて大統領になるまで、南アフリカで46年ほど続いた政策です。現在アパルトヘイト政策は廃止され、どこでも居住可能になりましたが、今でも多くの黒人が「タウンシップ」に住んでいます。ヨハネスブルグのビジネス街を歩くと、様々な人種が混在するコスモポリタン都市のような印象を持つかもしれませんが、「タウンシップ」に行くと、圧倒的に黒人が多いことに気が付くと思います。

南アフリカ最大のタウンシップ、ソウェトとは?

SOWETO(ソウェト)は、南アフリカ最大の経済都市ヨハネスブルグの郊外にあります。

SOWETO(ソウェト)。名前の由来はSouth Western Townshipsから来ていて、名前の通り、ヨハネスブルグの都心の南西に位置しています。始まりは、20世紀に入るころヨハネスブルグの金鉱を目指して多くの移民労働者がやってきたことにありますが、1948年に国民党が政権に就いた後、アパルトヘイト政策によって国内で弾圧が進むにつれ、白人居住区から黒人が締め出される動きが出たため、ソウェトは急速に拡大していきました。

ソウェトの見どころは、1955年に人種差別のない民主的な南アフリカを目指すことが記された「自由憲章」(南アフリカ共和国憲法の起草にも活用された文書)が採択されたソウェトのクリップタウンにあるウォルター・シスル・スクエア、そして1976年6月16日、アパルトヘイトの象徴とされていたアフリカーンス語で授業を行うという政治決定にソウェトの学生たちが抗議を行ったことから、警察の発砲で最初の犠牲者となった13歳の黒人少年ヘクター・ピーターソンの名前を冠したヘクター・ピーターソン博物館と記念碑があります。また、ネルソン・マンデラデズモンド・ツツが住んでいた「2人のノーベル賞受賞者を輩出した通り」として知られているフィラカジストリートが有名です。ソウェトは、アパルトヘイトの後期、抵抗運動の中心地だったこともあり、今でもそのことを誇りに思っている人が多く、アパルトヘイト政策廃止後も地元から出ない人も多いです。小高いエリアから周りを見渡すと、鉱山の跡地や廃炉になった火力発電所などがあることがわかり、昔の政策の爪痕を感じます。

ネルソン・マンデラ

ネルソン・マンデラは南アフリカ第8代大統領で、反アパルトヘイト(人種隔離)闘争を率い、1993年にはノーベル平和賞を受賞しました。

1964年には反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され、それから27年間に渡り刑務所に収容されました。

しかし、収監中、79年にインドの「ネルー賞」を受賞、88年には欧州議会の「サハロフ賞」を受賞するなど海外からの注目が高まり、1990年2月11日に釈放となりました。

1994年、第8代大統領に就任し、差別撤廃、格差是正、経済対策などに取り組みました。マンデラ氏は、人種・民族の融和をかかげ、「虹の国」の建設を宣言しました。

デズモンド・ツツ

反アパルトヘイト運動を宗教的に主導した人物です。教会を拠点に非暴力によるアパルトヘイト撤廃運動に取り組み、1984年にノーベル平和賞を受賞しました。

1960年に牧師に任ぜられたツツ氏は、1976~78年にレソトの主教、ヨハネスブルグの主教、そしてソウェトの教区牧師などを歴任しました。1985年にヨハネスブルグ主教となり、翌年には黒人として初めてケープタウン大主教に任ぜられました。ツツ氏は自らの地位を使い、南アフリカの黒人差別に反対する声を上げる一方、その動機は常に宗教的なもので政治的なものではないと述べていました。

マンデラ氏が南アの初代黒人大統領となった1994年、ツツ氏はアパルトヘイト時代の白人少数政権の犯罪を暴く「真実和解委員会」の会長に任命されました。また、アパルトヘイト以降に南アフリカの民族多様性を表す「レインボー・ネイション(虹の国)」という言葉を作ったことでも知られています。しかしツツ氏はアパルトヘイト以降、政権を握った与党・アフリカ民族会議(ANC)を強く批判しており、南アフリカ国民を代表しているとは言えない、自分が願ったような統合はできなかったと後悔を吐露しています。

2011年にANC政権がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の訪問をキャンセルした時には、ANC政権の崩壊のために祈りたいと警告しました。

ネルソン・マンデラの家

「ネルソン・マンデラ」はアパルトヘイト政策への抵抗運動を率い、政策が終焉したあとに与党となったアフリカ民族会議(ANC)という政党を率いていました。初めて行われた民主的な選挙によって、大統領に選ばれ、ノーベル平和賞も受賞しました。

そんなネルソン・マンデラが青年期を過ごしたのが、ソウェトです。14年間暮らした自宅も残っており、現在は博物館になっています。

マンデラが投獄されていた間、1人目の奥さんであるウィニー・マンデラが住んでいた時代もあり、家の外壁には、政府関係者による銃弾のあとも見ることができます。1991年に出所後、ソウェトの家に住むのは危険との声を押し切り、この家に戻りましたが、僅か10日後に引っ越しました。

ネルソン・マンデラの家(Nelson Mandela House

HP:http://www.mandelahouse.com/

ヘクター・ピーターソン博物館

1976年、アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府は、学校でオランダ系白人の母語であるアフリカーンス語の授業の導入を決定しました。アフリカーンス語を「白人支配の象徴」と見なす黒人、特に学生達の間に激しい反発が起こり、数週間に亘って黒人学生が授業をボイコットする事態に発展しました。1976年6月16日、黒人学生がアフリカーンス語の強制学習に対する抗議デモを実施し、シャープビル虐殺事件(1960年3月21日、身分証明書の常時携帯を黒人に義務付けた法案の通過に抗議する数千人の黒人デモ隊に警官隊が発砲し69人が死亡した事件)と同様、警察隊が発砲を開始し176人が死亡、1,000人以上の学生が負傷しました。「ソウェト蜂起」です。ヘクター・ピーターソンは、警官によって当時13歳の若さで射殺された少年で、アパルトヘイト体制への抵抗運動の最初の犠牲者となった人物です。横で泣き叫んでいる女性は彼の姉です。

子どもも含め多くの住人が虐殺される結果となったこの「ソウェト蜂起」と伝えるために作られたのが、この「ヘクター・ピーターソン博物館」です。

ヘクター・ピーターソン博物館(Hector Pieterson Museum

オーランドタワーズ

オーランドタワーズは、もともと石炭火力発電所の敷地に建てられています。オーランド発電所の建設は1935年に始まりましたが、第二次世界大戦による予期せぬ遅延により、完成までに約20年かかりました。その後、1998年に閉鎖され、さらに10年間は空き家で使われていませんでしたが、その後、バンジージャンプ等のアドベンチャー&ビジネスセンターに変貌した。

「バンジージャンプ」は33階建てビルの高さからの落下、「scad フリーフォール」では40mのフリーフォールが体験できます。

Orlando Towers Adventure Centre

HP Soweto Towers | Vertical Adventure Centre

アパルトヘイト政策に関するおススメ映画

ソロモン・マシャング: 解放の闘士

『マンデラの名もなき看守』

『インビクタス/負けざる者たち』

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